プロフィール
本名 青山 英明
・1976年3月27日生まれ
・滋賀県長浜市生まれ 千葉 アメリカ育ち(16歳~20歳まで) 現在Phnom Penh在住
・身長 173cm
・体重 80kg
・趣味 パソコン・ギター
・仕事 投資家
・家族 9歳のかわいい長女と奥さん
2014年9月末に双子が産まれました。
1976年 普通のサラリーマンの家に生まれます。
滋賀県長浜市には母方の実家があり生後一ヶ月で両親の住む千葉県へ引越し
長浜市へは毎年お盆と正月に帰省していました。
最初は,どこにでもある普通のサラリーマン家庭だったのですが私が小学校4年生の時に突然父が脱サラをして地元で婦人服店を開業。
今まで専業主婦だった母もその手伝いの為、家にいないのが当たり前になり鍵を渡されました。
いわゆる鍵っ子ってやつですね。
あの時はほんとに悲しいと言うか寂しいというか今まで当たり前だった
「ただいま」
「おかえり」
と以前は当たり前だった挨拶が突然消えたのがショックでした。
そんな日々の、唯一の心の支えはほぼ毎日遊んでいた近所の幼馴染、アメリカ人のジョン君の存在でした。
彼はホームスクール(自宅で資格をもった親が教えるという学校)をしていたせいか友達もほとんどいないので、私が学校から帰るとずっと一緒に遊び英語や日本語で色んな話しをしていました。
しかし、そんな日々も長くは続かず、私が中学3年生になったある日ジョン君はアメリカへ帰国してしまいました。
その後残された私はずっとアメリカに行きたい、いく方法はあるだろうかと考えていました。
普通に高校に入ったもののまともな英語の授業は始まらず中学の復習から始まり、高校3年生の先輩にも英語の教科書を見せてもらったが当時日常会話程度の英語ができた私には学校での勉強にそれほど魅力を感じず、わずか3ヶ月弱で高校を中退しました。
もちろんアメリカに行くために。
高校を中退した後、最低でも準備に数か月はかかるとは思っていたのでバイトを探しましたが、高校中退のしかも3月生まれの為、まだ15歳だった私を雇ってくれるところはなかなかなく仕事を探すのも苦労しました。
やっと見つけたのは喫茶店の仕事でした。当時としてもかなり安い時給630円・・・
しかもJR津田沼駅の構内にある喫茶店でしたので仕事は忙しい。元々早番4人、遅番3人で回してたのですが、1人辞め、2人辞めと続き、気がついたら早番は私1人になってました(泣)遅番も何人か辞めたので朝6時半から夜10時半まで16時間労働は当たり前。しかも通勤に1時間かかります。
さらに2月なのに28日も働いてました。当然うるう年ではありません。
1人で水を持っていって、注文を取って品物作って出して、会計して皿洗いまでしちゃいます。殺人的な労働時間のおかげでお金を使う時間がなく随分と貯まりました。
ビザの申請の方は、当時はメールもインターネットも無い時代ですから全て郵送のやり取りでしたので時間がかかりました。
アメリカ大使館に持っていっても
「書式が違います」
「ここにサインがありません」
この様なやり取りを何度もしながら、再申請を6回ほどして無事取得。
仕事を辞める頃には人数が増え殺人的な忙しさではなくなりましたし、元々アメリカに行くまでとの約束だったので円満に辞めました。
そして渡米。
ジョージア州のオーガスタ(Augusta)にある高校に入りました。
日本人は一人もいない環境。
そこそこ英語ができると思ってたのは勘違いだったと気づかされる日々。
大統領制の仕組みやゾウリムシの毛の部分を何々と呼びます等々、
「そんなの日本語でも知らないよ」
と言いたくなる話をいきなり英語で学びます。
ついていくのに必死です。
やっと16時間労働から解放されたと思ったのにやっぱり16時間以上勉強していました。
そんな日々を一年半ほど過ごすと家での勉強をほとんどしなくても授業も全く問題なくなりました。
それからは家での勉強は最低限にして友達とバンドをやりほんとに毎日夜遅くまでギターの練習をしました。
どうやらとことんまでやってしまうのは性格のようです(笑)
しかしビザの期限切れの為に楽しいアメリカでの生活も終わり日本に帰国。
世は不況の1997年、仕事を探すのにもまた苦労します。
きっと東京で探せば全く問題なかったんだと今は思いますが当時はそんな考えはなく英語を使う仕事を実家(千葉)近くで探していました。
まあそんな仕事が千葉にたくさんあるわけもなくいつまでもプラプラしていられないのでとりあえずデパートの食品売り場でバイトを始めました。
そこで出会った女性と交際。
若かったのもあるが勢いで結婚。
子供が一人できますが、今まで友人だと思っていたシンガポール人に騙されたり、仕事も安定せずお金がなくなりお互いの実家に帰るはめに
どんなに頑張っても毎月の給料は20万円ちょっと。
その大部分を妻に渡し、その残りから、家族3人で住む為の引っ越し費用を貯金して、さらにとことんまで切り詰めたが新居を借りる費用にはほど遠くそのまま1年程過ぎた時に相手から
「離婚する」
と言われました。
ほんとに惨めでした・・・
当時息子は2歳になるかならないかくらいで
最後に会った時の別れ際,自転車に乗せると大声で泣いてました。
子供にもきっと何かわかってたのでしょうね。
お別れを言うとさらに泣き、自転車が走り出しても泣き続け、姿が見えなくなってもずっと泣き声だけが聞こえていました。
(今思い出しても涙が出そうになります。)
その時本気でお金持ちになりたいと思いましたがどうすればいいのかわかりませんでした。
いろんな仕事をしました。
仕事を掛け持ちして警備員の仕事もしましたし、それこそ底辺と言っては失礼かもしれないけれどもそれに近い仕事もかなりやりました。
ネットワークビジネスも2社経験しました。
1社は耐久商材で元を回収した程度で終わってしましましたが、2社目の健康食品の会社では講師にまでになりました。
順調に会員を増やし、私の収入もドンドン増えて行ったのですが、別の講師が薬事法違反で逮捕され、社長副社長は事情聴取。会社はその商品自体を扱えなくなりました。と同時に増えていた私の収入も無くなりました。
ショックでした。
でもそこで立ち止まっていはいられません。
その後、好きだった趣味のパソコンスキルを生かしパソコンショップでの販売の仕事を派遣で始めました。
これが性に合ったのかすごく楽しく元々とことんやってしまう性格だった為に、家にサーバーまで構築するくらいになり、秋葉原のPCショップで店員をしいても知識が飛びぬける程になりました。(この頃はもう英語を使って仕事を探す事は止めていましたが、東京で働いていました)
ただ派遣というのは派遣期間があったりと、かなり不安定で1年に5回勤務先が変わる年がありました。
その仕事が変わる間20日空いたり、1カ月空いたりして最初のうちは貯金を取り崩しながらも生活はできたのですが、それでは追いつかなくなり、終いには借金までする生活になりました。月に10万円も手取りが減ったのが2か月続いたところに家賃の更新1カ月分、さらに借金の返済、養育費。
ほんとに死にそうになりました。
そんな生活の中、ロバートキヨサキの著書金持ち父さん貧乏父さんを同僚に勧められ
「これだー!!!」
と思いました
それからは不動産屋さんを何件も回りましたが
「派遣?」
「それだと融資がまず下りないね~」
とあっさりと断られます。
どうしたらいいんだろうと考えた末、遠回りになるかもしれないがまずは社員になろうと思ったその当時働いていた秋葉原のPCショップにカナダ人の彼女を連れた日本人男性が彼女のパソコンを探しにきました。
彼は何度か話すと突然
「なんでそんなに英語力あるのに、こんなところで働いているの?」
と、自分が働いている職場をこんなところとずけずけ言う彼が言うには英語の仕事を探すには方法があるという。
彼の言う方法に従って探すとほんとにいろんな英語とパソコンのスキルを生かせる仕事があり、転職を決意しました。
転職すると突然年収が以前の倍近くになり借金の返済も進んできました。
借金の返済が終わり、2度目の転職をした先で出会った女性と結婚しました。
子供も生まれ貯金も増え勤続年数3年目に入った年、株の儲けを頭金にして一棟アパートを購入し不動産投資家としての生活もスタートしました。
投資家として、まだまだ勉強中ですが、不動産投資も順調に推移し、投資からの収入が、サラリーマン年収を超え2012.3月末日をもってサラリーマンを引退致しました。
2012.7月末にカンボジアに移住致しました。
現在では不動産仲介業をカンボジアで行っています。
ここまでの道のりは大変だったけど、今振り返ると、絶妙なタイミングでいろんな出会いがあり人生ってほんとよくできてるなと思います。
その出会いは本だったり、人だったり様々ですが今まで出会ったすべての出来事に感謝したい気持ちでいっぱいです。
ありがとうございました。
投資家あおやま
Facebookやってます。
興味が在る方はメッセージと一緒に申請して下さい。
https://www.facebook.com/aoyamahideaki
・1976年3月27日生まれ
・滋賀県長浜市生まれ 千葉 アメリカ育ち(16歳~20歳まで) 現在Phnom Penh在住
・身長 173cm
・体重 80kg
・趣味 パソコン・ギター
・仕事 投資家
・家族 9歳のかわいい長女と奥さん
2014年9月末に双子が産まれました。
1976年 普通のサラリーマンの家に生まれます。
滋賀県長浜市には母方の実家があり生後一ヶ月で両親の住む千葉県へ引越し
長浜市へは毎年お盆と正月に帰省していました。
最初は,どこにでもある普通のサラリーマン家庭だったのですが私が小学校4年生の時に突然父が脱サラをして地元で婦人服店を開業。
今まで専業主婦だった母もその手伝いの為、家にいないのが当たり前になり鍵を渡されました。
いわゆる鍵っ子ってやつですね。
あの時はほんとに悲しいと言うか寂しいというか今まで当たり前だった
「ただいま」
「おかえり」
と以前は当たり前だった挨拶が突然消えたのがショックでした。
そんな日々の、唯一の心の支えはほぼ毎日遊んでいた近所の幼馴染、アメリカ人のジョン君の存在でした。
彼はホームスクール(自宅で資格をもった親が教えるという学校)をしていたせいか友達もほとんどいないので、私が学校から帰るとずっと一緒に遊び英語や日本語で色んな話しをしていました。
しかし、そんな日々も長くは続かず、私が中学3年生になったある日ジョン君はアメリカへ帰国してしまいました。
その後残された私はずっとアメリカに行きたい、いく方法はあるだろうかと考えていました。
普通に高校に入ったもののまともな英語の授業は始まらず中学の復習から始まり、高校3年生の先輩にも英語の教科書を見せてもらったが当時日常会話程度の英語ができた私には学校での勉強にそれほど魅力を感じず、わずか3ヶ月弱で高校を中退しました。
もちろんアメリカに行くために。
高校を中退した後、最低でも準備に数か月はかかるとは思っていたのでバイトを探しましたが、高校中退のしかも3月生まれの為、まだ15歳だった私を雇ってくれるところはなかなかなく仕事を探すのも苦労しました。
やっと見つけたのは喫茶店の仕事でした。当時としてもかなり安い時給630円・・・
しかもJR津田沼駅の構内にある喫茶店でしたので仕事は忙しい。元々早番4人、遅番3人で回してたのですが、1人辞め、2人辞めと続き、気がついたら早番は私1人になってました(泣)遅番も何人か辞めたので朝6時半から夜10時半まで16時間労働は当たり前。しかも通勤に1時間かかります。
さらに2月なのに28日も働いてました。当然うるう年ではありません。
1人で水を持っていって、注文を取って品物作って出して、会計して皿洗いまでしちゃいます。殺人的な労働時間のおかげでお金を使う時間がなく随分と貯まりました。
ビザの申請の方は、当時はメールもインターネットも無い時代ですから全て郵送のやり取りでしたので時間がかかりました。
アメリカ大使館に持っていっても
「書式が違います」
「ここにサインがありません」
この様なやり取りを何度もしながら、再申請を6回ほどして無事取得。
仕事を辞める頃には人数が増え殺人的な忙しさではなくなりましたし、元々アメリカに行くまでとの約束だったので円満に辞めました。
そして渡米。
ジョージア州のオーガスタ(Augusta)にある高校に入りました。
日本人は一人もいない環境。
そこそこ英語ができると思ってたのは勘違いだったと気づかされる日々。
大統領制の仕組みやゾウリムシの毛の部分を何々と呼びます等々、
「そんなの日本語でも知らないよ」
と言いたくなる話をいきなり英語で学びます。
ついていくのに必死です。
やっと16時間労働から解放されたと思ったのにやっぱり16時間以上勉強していました。
そんな日々を一年半ほど過ごすと家での勉強をほとんどしなくても授業も全く問題なくなりました。
それからは家での勉強は最低限にして友達とバンドをやりほんとに毎日夜遅くまでギターの練習をしました。
どうやらとことんまでやってしまうのは性格のようです(笑)
しかしビザの期限切れの為に楽しいアメリカでの生活も終わり日本に帰国。
世は不況の1997年、仕事を探すのにもまた苦労します。
きっと東京で探せば全く問題なかったんだと今は思いますが当時はそんな考えはなく英語を使う仕事を実家(千葉)近くで探していました。
まあそんな仕事が千葉にたくさんあるわけもなくいつまでもプラプラしていられないのでとりあえずデパートの食品売り場でバイトを始めました。
そこで出会った女性と交際。
若かったのもあるが勢いで結婚。
子供が一人できますが、今まで友人だと思っていたシンガポール人に騙されたり、仕事も安定せずお金がなくなりお互いの実家に帰るはめに
どんなに頑張っても毎月の給料は20万円ちょっと。
その大部分を妻に渡し、その残りから、家族3人で住む為の引っ越し費用を貯金して、さらにとことんまで切り詰めたが新居を借りる費用にはほど遠くそのまま1年程過ぎた時に相手から
「離婚する」
と言われました。
ほんとに惨めでした・・・
当時息子は2歳になるかならないかくらいで
最後に会った時の別れ際,自転車に乗せると大声で泣いてました。
子供にもきっと何かわかってたのでしょうね。
お別れを言うとさらに泣き、自転車が走り出しても泣き続け、姿が見えなくなってもずっと泣き声だけが聞こえていました。
(今思い出しても涙が出そうになります。)
その時本気でお金持ちになりたいと思いましたがどうすればいいのかわかりませんでした。
いろんな仕事をしました。
仕事を掛け持ちして警備員の仕事もしましたし、それこそ底辺と言っては失礼かもしれないけれどもそれに近い仕事もかなりやりました。
ネットワークビジネスも2社経験しました。
1社は耐久商材で元を回収した程度で終わってしましましたが、2社目の健康食品の会社では講師にまでになりました。
順調に会員を増やし、私の収入もドンドン増えて行ったのですが、別の講師が薬事法違反で逮捕され、社長副社長は事情聴取。会社はその商品自体を扱えなくなりました。と同時に増えていた私の収入も無くなりました。
ショックでした。
でもそこで立ち止まっていはいられません。
その後、好きだった趣味のパソコンスキルを生かしパソコンショップでの販売の仕事を派遣で始めました。
これが性に合ったのかすごく楽しく元々とことんやってしまう性格だった為に、家にサーバーまで構築するくらいになり、秋葉原のPCショップで店員をしいても知識が飛びぬける程になりました。(この頃はもう英語を使って仕事を探す事は止めていましたが、東京で働いていました)
ただ派遣というのは派遣期間があったりと、かなり不安定で1年に5回勤務先が変わる年がありました。
その仕事が変わる間20日空いたり、1カ月空いたりして最初のうちは貯金を取り崩しながらも生活はできたのですが、それでは追いつかなくなり、終いには借金までする生活になりました。月に10万円も手取りが減ったのが2か月続いたところに家賃の更新1カ月分、さらに借金の返済、養育費。
ほんとに死にそうになりました。
そんな生活の中、ロバートキヨサキの著書金持ち父さん貧乏父さんを同僚に勧められ
「これだー!!!」
と思いました
それからは不動産屋さんを何件も回りましたが
「派遣?」
「それだと融資がまず下りないね~」
とあっさりと断られます。
どうしたらいいんだろうと考えた末、遠回りになるかもしれないがまずは社員になろうと思ったその当時働いていた秋葉原のPCショップにカナダ人の彼女を連れた日本人男性が彼女のパソコンを探しにきました。
彼は何度か話すと突然
「なんでそんなに英語力あるのに、こんなところで働いているの?」
と、自分が働いている職場をこんなところとずけずけ言う彼が言うには英語の仕事を探すには方法があるという。
彼の言う方法に従って探すとほんとにいろんな英語とパソコンのスキルを生かせる仕事があり、転職を決意しました。
転職すると突然年収が以前の倍近くになり借金の返済も進んできました。
借金の返済が終わり、2度目の転職をした先で出会った女性と結婚しました。
子供も生まれ貯金も増え勤続年数3年目に入った年、株の儲けを頭金にして一棟アパートを購入し不動産投資家としての生活もスタートしました。
投資家として、まだまだ勉強中ですが、不動産投資も順調に推移し、投資からの収入が、サラリーマン年収を超え2012.3月末日をもってサラリーマンを引退致しました。
2012.7月末にカンボジアに移住致しました。
現在では不動産仲介業をカンボジアで行っています。
ここまでの道のりは大変だったけど、今振り返ると、絶妙なタイミングでいろんな出会いがあり人生ってほんとよくできてるなと思います。
その出会いは本だったり、人だったり様々ですが今まで出会ったすべての出来事に感謝したい気持ちでいっぱいです。
ありがとうございました。
投資家あおやま
Facebookやってます。
興味が在る方はメッセージと一緒に申請して下さい。
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拍手
ではまた♪
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人と人との繋がりが自分自身を豊かにすると感じました。
今後もブログ楽しみにしています。
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コメントありがとうございます!!!